Psyは投げられた

若手精神科医が有る事無い事色々つぶやきます。

現実逃避は無趣味だとできない。

f:id:thePsyiscast:20190525140340j:image

 

 近所に本格的なフレンチのお店ができ、そこに通うとワインの話がでる。

うちの教授もワイン好きだし、一度しっかり勉強してみようと、ワイン関連の書籍を読んでいる。読むからにはちゃんと覚えようと、ノート作りなんかもしている。受験勉強以来の久々のまともなノート作り、iPadでやってみると結構便利なものだ。地図を貼ったり、いろんなペンで書き込んだり。

都会のスターバックスに腰掛けながら、頭はフランスの葡萄畑に意識を飛ばして、見たこともないのに勝手にテロワールを感じている。高校生の間にワインを知っていれば、僕は地理選択になっていたかもしれない(高校生の間にワインを飲んではいけない)

 

 

苦しい時、気持ちをそこに集中させず、意識を別の夢中になれるものに飛ばす。ストレスの多い世の中で生きるためにとても大切な力だと思う。僕もワインを勉強しながら、頭がフランスに飛んだり、チリに飛んだり、葡萄畑の水はけの良さを感じたりと、現実から切り離されていると、現実の不安やしがらみでいっぱいの頭が柔らかくFLUSHされる感覚になる。

 

日頃話をする患者達に、「無趣味なんです」という人が多い。楽しみながら、流れる時間をそのことばかり考えて過ごす、その媒体を持たないことには、現実から逃避することができない。不安、しがらみ、懸念ごと、現実の問題に振り回され、時間的余裕があっても、その時間で何を楽しめば良いか分からず、結果「余裕があるのに何もできない不安」に振り回される結果となる。

 

趣味を持つことは、若い時に一度経験しておけば、次々と見つけることができるものだが、歳をとるまで無趣味だと、新しいものを見つけてもどう没頭すれば良いか分からなくなるものだ。若い間になにかに熱中したり没頭したりすることが、生きる上で大切なことである。そういう意味では、勉強ばかりせずに、自分の好きなことに熱中して、ちょっと怒られるくらいまで成績を一過的に落とすことも、悪くないことかもしれない。なんて思っている。

退職代行業者と精神科医療

外来をしていると、結構「しごとをやめたい」という人がいる。

先日の外来でも、数人連続でそれを言われたことがあった。

 

「うつ」として加療されている患者さんが、こんなことをいう。

 

会社の評判が悪く、生活の中で、「あの会社に勤めるなんて」と誹謗中傷されることがある。参っているので、診断書をもらってしごとをやめたい、とか。

新しい上司がなかなか分からず屋で、合わない。前からやめたいやめたいと思ってたけど、もうやめる気になったから、先生に診断書書いてもらってやめようかな、と思って、とか。

 

 

一方では、

今追い詰められていて、しんどくなっている、だから、助けを借りて休みたいんだな、ということは理解できる。

もうこの仕事には踏ん切りをつけたい。ここにいても自分は辛い想いをするだけだ。でも自分で「辞める」という勇気がない。だから、今かかっている医者にお願いして、自分の辞めるきっかけを与えてほしい、ということだろう。

 

他方で、

精神医療では「やめろ」なんてまず言えないし、言うことで余計問題になることもあるかなとも思う。

目の前の人は、その特定のストレス因子に不適応を起こしているだけで、実際は内因性うつじゃないし

ストレスから遠ざけることがたしかに治療だけど、それは会社全体を否定する「退職」が必要条件ではない。

それに、この人は「自分で言えない」ことが精神科にかかっている一理由になっていて、それを克服させることがこの人の精神科医療への依存度を減らすことになるんじゃないか、と考える。簡単にやめさせてあげることは、この人の社会適応をさらに悪くさせてしまう。

 

 

当然、こう言う人に「やすみなされ」と言うことや「休ませたほうがいいよ」までは書いても、「やめましょう」という診断書は書かない。書けないし、書いても効力なんて本来ないものであるし。(しかし地域の会社ならそれでOK,やめましょう、になることはあるようだ)

休む、までの手助けはして、辞めるという最期の一山は、自分の足で越えてもらう。越えるためのお手伝いは診断書じゃなくて、動機付けである、というのが、精神医療のあるべき姿だと考える。

 

 

しかし、目の前には今にもやめたくて苦しんでいる人もいる。

目の前で悶々と苦しんでいる人、しかし自分にできることは無い、さてどうしよう、と思った時に、つい勧めてしまうのが「退職代行業者」である。

最近はやりの退職支援、法律的には退職はすぐにできないといけないことなどを引き合いに、退職の手続きを代行する業者である。

「自分でいえない」人の「たすけになる」ということで、最近流行りになっていることはよく聞かれる。

 

 

こういう業者の存在、すごくモヤモヤする感覚が精神科医として、ある。

退職を斡旋してお金を稼ぐのも大切だし、

実際に苦しんでいる人に手を差し伸べることも大切だけど、

全ての人に一律に「手伝って退職させてあげる」ことが「精神医学として」良いのか、という迷いがある。

 

退職斡旋業者の存在は、法律という切り口からの「退職を選ぶ権利」を正当に行使させる上で大切だということはわかるので、否定するものでは無い。

けど、上記の人のような退職できていない人が、必ずしもそういった助けを減ることで、長い目で見てこの人の人生を充実させない可能性もある、と感じるわけだ。

 

結局、一人は「自分でやすみを取りながら、どうしてもだめなら自分でいいます、せんせいありがとうございます」といってくれたし、もう一人は「休んでちょっと頭を冷やして、やめてみようと思います」と。

 

 

人生の決断に携わる話を聞くからこそ、全員画一的には「やめましょう」「やすみましょう」と言えないのが、精神科医療のつらいところだし、割に合わんなぁ、と思うけど、面白いなぁ、と思うところでもある。

 

5/4のマインドフルな日記。

友人が僕を訪ねてこの地域に来ている朝起きて喫茶店でコーヒーを飲んでいる。

 

マンデリンを頼むと、赤いカップに底の見えない漆黒が注がれてきた。

f:id:thePsyiscast:20190504090041j:image

入れたてのコーヒーは、表面にモヤモヤとした波のような濃淡を見せ、一口つけると、モーニングのバターが唇から輸出され、油膜をほんの少し広げていく。

 

舌に乗ったコーヒーは視覚を削ぎ落とされ、味覚の媒体へと変化する。舌先では感じるコーヒーの味、飲み込み気味になった時には舌の側部で渋みを感じ、最後に舌の奥の真ん中で、温かみと、残った香ばしさが胃に入る前の名残を残す。

 

一口飲み、カップを置いて浮かぶ湯気を吸い込む。コーヒーの香りは鼻の奥にきゅうっと引きつけられ、一種痛みにも似たような刺激を頭に残し、肺に達した時は少しさわやかな解放を体に満たす。カップを空にするまで、それを幾度も繰り返す。

 

iPhoneハンドスピナーにするリングをつける難しさに話を咲かせながら、今日も風呂と飯の旅が始まるのである。

 

忙しい日々にこそマインドフルな生活を

専門医のレポートが一息つきそうで少し気持ちを緩めていたのもつかの間、次は指定医のレポートや、東京の箱探しや、色々な仕事が詰まっている。頭を整理するブログが滞ると、きぶんも滞ってしまっていた。また書き始めよう。

 

 

 

この2ー3週間ほどは病院にほぼ泊まり込みのようにしてレポートを書き漁っていた。

平常運転の外来が5時すぎに終わり、必要な患者の回診をして、そこから飯を食って、書類を書いて、8時9時からさてレポート書き。

 

レポートを書くからと思ってしっかりと病歴を調べると、あぁ真面目に調べてなかったなこの人、と感じたり、この症例で書こうと思っていたのに書き始めたら全然全然筆がすすまなかったり、手帳の書き方の説明が杜撰でよくわからないまま書いて間違えたり、晩の1ー2時では効率が落ちてしまって何を書いているのかわからなくなったり。この苦境をのりこえるのが専門医に必要なのだろうか、なんてトチ狂ってみたりとしながら、病棟にある診察室を独占して夜な夜なパソコンを打っているへんな先生になってしまった。

 

おかげさまで鍛えたあげた体はふにゃふにゃになり、寝不足で向かった居酒屋で大失態を犯したり、気晴らしと思ってする麻雀はボロボロに負けたりと、踏んだり蹴ったりな4月前半戦であった。

 

医者は医業以外にすることが大量にある。この中で家族を持ったり育てたりしている人は異常だ。えげつない。生きていくだけであればこんな苦行を得る必要はないのに、なぜこんなに四六時中モリモリと動いているのだろう、と疑問を感じてしまう。

 

4月からは病院の体制も変わって、なぜかぼくが常勤代表みたいになっている。会議も多いし、細かいよくわからない相談も多い。棚の中身をどうしようって、しらんがな、捨てろとしか言えなかったり。しかしその中で入院時の多職種アセスメント制度を作ろうと会議をしたり動機付け面接の勉強会を広げようとしてみたりと、さらに負荷を増やしてしまっている。

 

人間、何か暇な時間があると、そこを埋めようとする。暇な時間に頭に浮かんだことで暇を減らそうとする。これで時間貧乏になってしまって、しんどい疲れたわーわーわーとなってしまうのだ。もちろんスキルをつけたり、業績を上げたりはできるのかもしれないが、人生はそれだけではない。気持ちの余裕を持てる人生は、きっと社会的地位よりも大切な何かを与えてくれる。

 

マインドフルネスだな、こんなときは、と思い、目をつぶる。耳にながれるMichael Angelo Batioのno boundariesから鼻を流れる息の感覚に気を払う。携帯が鳴っている。しかしすぐに反応するのではなく、ただただ呼吸を感じて、懸念を無にするのだ。金とか、地位とか、仕事とか、恋愛とか、人生とか、一旦忘れて、じぶんの生命に意識を向けるのだ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「先生、お忙しい中すみません、浣腸出してもらっていいですか」

 

 

瞑想中に便の話をされた僕は、無の意識に便が流し込まれ、あぁぁ腹いてぇ、と、トイレに駆け込むのだった。

精神疾患診断の難しさと、典型から離れることの弊害

専門医レポートを書いている。正直、厳しい。綺麗な、典型的な症例、というのが少ないからだ。

 

ときに「典型的な統合失調症」とか、「典型的なうつ病」という発言をするけど、この言葉を使う裏には、「純粋、典型的な症例は本当に少ない」から、大切にしたい、という意味でこの言葉が出ているのかと思う。

 

かつては破瓜型統合失調症や、メランコリー親和型うつ病など、確かに「精神科医の認知において典型性を持った」類型診断があった。プレコックス感、という言葉もある。今はあまり言われなくなっているが、「精神科医が、この人は精神病だな、とふと感じるその感覚」のことをいう。つまり、統合失調症うつ病は、旧来的には精神科医の認知的類型に診断を頼っていた部分があったわけだ。

 

f:id:thePsyiscast:20190324210456j:image

 

でも、こうすると文化差ができてしまう。この集団の精神科医はこういう人をこういう典型としてみる、あの国ではこう、みたいな。出来る限り軸を持って計測して、科学的に診断名を確定させていこうとしているのが操作的診断というアプローチだ。

 

f:id:thePsyiscast:20190324210656j:image

 

私たち若手は、これを元に疾患の勉強をしていこうとする。しかし、レポートを書く上で「鑑別診断をしろ」というと、なかなか難しい場面もある。

例えば、この人は解離性障害も持っているが、BPD的な心性もあり、持続性の抑うつ気分もあるから気分変調症と言えるかもしれない、IQも低く出ているから知的障害か?などということである。軸をもつがあまり、さまざまな物差しで測りたくなって、あれもこれも、となってしまうのだ。すると、この人は解離の典型としてみていいのか、あるいは典型例と言い切れないのか、治療はどの軸を元に組み立てていくのだ、と苦しんでしまうわけである。

 

f:id:thePsyiscast:20190324211142j:image

 

そして、バイオサイコソーシャルモデルのように、多軸的に同時に治療を行おうとするのが、折衷主義という今の精神医療の主流なのだが、そうするとどの軸の治療が結局効いたのか、わからない、というのが問題になる。そこで、まずはこの軸で治療して、ダメなら次の軸で、としていくのが良いのでは、というのがナシアガミーの多元主義である(と僕は理解している)

 

現代精神医学のゆくえ―― バイオサイコソーシャル折衷主義からの脱却

現代精神医学のゆくえ―― バイオサイコソーシャル折衷主義からの脱却

 

 

これは特に外傷体験をもつ患者の治療に大いに役立つかと考える。

まずは精神病圏の軸で治療、次は鬱の軸で治療、ダメなら精神療法的アプローチ、といった順に行い、本当にこの患者に対して必要なものは何かを考える。

典型を捨てるが故の、治療戦略として現代の精神科医が知っておかなければならない考えなのである。

 

 

そして、そんな時代に精神科のレポートを書くのはとても難しい。

典型を語れず、鑑別を語るには診療時間が足りず、治療を語るには字数が足りないのだ。

結果、「こう診るとする」として書くしか無くなる。

 

経験を象徴するための字数制限のあるレポートは、それ自体がとても自己矛盾的に感じるのだ。

体制が変わるにつれてやっていきたい事

当院は医局人事によって回されている地方病院ですが、ここ数年はかなり波乱万丈の人事で、毎年トップが変わり、ついに4月からは自分が一番古株になる精神科となります。(上級医は非常勤でちゃんといる)

地域との折衝などもある程度担う一方で、「動くなら今しかない」と思ってやりたいことを考えています。

 

継続ー

 ・動機付け面接勉強会

 院内スタッフをメインにしていましたが、これからは地域の人にもっとひろげて(特に保健師PSWグループホームの職員など)みんながパーソンセンタードな聴き方をできるようにしていきたいです。

・お薬講義

 院内スタッフや研修医を相手にするお薬講義。向精神薬抗精神病薬とはなんぞ、と言う話や、デポなどの剤型のはなし、その使い分けや使い方の問題点など、包括的に説明する講義にしていきたいと思います。

新規ー

・疾患自助グループへの場所貸し

  田舎だと、引きこもると本当に家族以外の人と会わないですむ。時にスーパーに行っても、たとえば摂食で痩せている人が、「あ、あの人も私とおなじかな」なんて感じられるほど人がいないのです。

  田舎で病気と戦うと言うのは、本当に孤独で、都会ならもっと気軽にオフ会などできるのでしょうが、それができない彼ら彼女らが「自分一人じゃない」と思える場を提供するコンセプトです。

統合失調症病気勉強グループ

 アルコールの勉強会はあるのに、統合失調症というメジャーな病気の勉強会がないのは、ちょっと問題ではないか、と考えるところもありました。実際に病識をつけていくためには、本人が自分の症状や体験とむきあい、そしてほかのひとのそれと比較したりすることが大切です。こういうのも作っていきたいなと考えています。

・お薬エキスパート制度?

  今日聞いた南ヶ丘病院でしている制度だそう。院内で知識や処方についてのテストをして、お薬のことをどれくらい理解できているか、ということを証明するような資格を作り、ピンバッジなどで見せられるようにしているとのことです。うちでやるには難しいかもしれませんが、やはり看護師にしっかりと薬剤の理解をしてもらいたい、という点ではこういうのもしてみても良いかもしれない。

  ・外来での動機付け枠作成、録音、書き起こし

  あらかじめ了承を取っておいて、動機付け面接をしている録音やビデオを撮って、勉強せねばならんとおもっているんです。

 

  今はとりあえず色々する前に、右下埋没智歯抜歯の痛みをどうにかしてほしいです。

 

患者から学ばされる言葉ー元ボーダーのお姉さんー

ご無沙汰しています。一度ブログを書かなくなると全然書けなくなっていて、あぁこのままじゃまずいと思ってまたふでを取る次第です。

 

精神科医は、相談者のの人生や経験を生々しく聴くことが必要なことがあります。

だから、ほかの医師と比して多くの人の「人生」を知ることになる、そんな職業です。

自分と全く違う環境で、全く違う価値観や考え方を抱いてきた人。そんな人のしんどさや苦しさを聴く中で、「あーわかるー」となる苦しさと、「うーん、想像ができない」と思うもの、もちろん出てしまう。

 

僕の場合は、いわゆる外傷的育ち、育ちの傷を抱える人には「あーわかるー」となってしまうタチである。外傷的育ちと言われている人は、診断名としては解離性障害境界性人格障害(ボーダーライン)という名前がつくことがある。

 

ある日の外来。「元」ボーダーと言えるようなお姉さん。

昔は自傷をたくさんし尽くして、死にかけたこともあるし、ICU入院もしたことがある彼女。

彼女の抱えている傷は、振り回す母親。気ままで「こうありなさい」とやることなすことを否定してくる母親に、時には虐待と言われるような仕打ちを受けます。

しかし、今は本当に落ち着いた状態で、グループホームに住み、就労しながら、実家と距離を置いて過ごしている。

 

彼女に「自分がボーダーを抜け出したとき、何が変わっただろう」と聞いてみた。

「うーん。自分の苦しみ、途方も無い苦しみ、もちろんあるんだけど、それを考えて生きるより、他人の幸せ、人の喜び、そういったものに目を向けて生きるべきだ、という脳筋思考が身についたからかな」と。

自分が自傷行為を繰り返していた時に、母親と同じように姉妹を振り回してしまったという罪悪感、そして今は母以外の家族にほんとうに幸せになって欲しい、と思うきもちから、自傷を捨てて、自分のペースで過ごしている、という。もちろん、母との関係を振り切れているわけではなく、時に実家に帰ったりすると、気持ちを揺らされて、過去を思い出して苦しむこともある。それでも、みんなの幸せをおもいながら人生を過ごせている。

 

 

僕も自分の苦しみに意識が集中してしまうことがある。目の前の真っ暗さ、これから人生が好転しないように感じられて途方も無い恐怖に陥ることもある。そんな時に、彼女が言うような「他者の幸せ」に意識を向けられるだろうか。いやぁ、僕はまだあなたの境地には達せていないかな。患者と医者だけど、先輩だ。

 

沢山の患者にあいながら、そんな想いを抱けるこの職業は、とても魅力的だと僕は思いたい。しんどい時もあるけど。