Psyは投げられた

若手精神科医が有る事無い事色々つぶやきます。

精神疾患診断の難しさと、典型から離れることの弊害

専門医レポートを書いている。正直、厳しい。綺麗な、典型的な症例、というのが少ないからだ。

 

ときに「典型的な統合失調症」とか、「典型的なうつ病」という発言をするけど、この言葉を使う裏には、「純粋、典型的な症例は本当に少ない」から、大切にしたい、という意味でこの言葉が出ているのかと思う。

 

かつては破瓜型統合失調症や、メランコリー親和型うつ病など、確かに「精神科医の認知において典型性を持った」類型診断があった。プレコックス感、という言葉もある。今はあまり言われなくなっているが、「精神科医が、この人は精神病だな、とふと感じるその感覚」のことをいう。つまり、統合失調症うつ病は、旧来的には精神科医の認知的類型に診断を頼っていた部分があったわけだ。

 

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でも、こうすると文化差ができてしまう。この集団の精神科医はこういう人をこういう典型としてみる、あの国ではこう、みたいな。出来る限り軸を持って計測して、科学的に診断名を確定させていこうとしているのが操作的診断というアプローチだ。

 

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私たち若手は、これを元に疾患の勉強をしていこうとする。しかし、レポートを書く上で「鑑別診断をしろ」というと、なかなか難しい場面もある。

例えば、この人は解離性障害も持っているが、BPD的な心性もあり、持続性の抑うつ気分もあるから気分変調症と言えるかもしれない、IQも低く出ているから知的障害か?などということである。軸をもつがあまり、さまざまな物差しで測りたくなって、あれもこれも、となってしまうのだ。すると、この人は解離の典型としてみていいのか、あるいは典型例と言い切れないのか、治療はどの軸を元に組み立てていくのだ、と苦しんでしまうわけである。

 

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そして、バイオサイコソーシャルモデルのように、多軸的に同時に治療を行おうとするのが、折衷主義という今の精神医療の主流なのだが、そうするとどの軸の治療が結局効いたのか、わからない、というのが問題になる。そこで、まずはこの軸で治療して、ダメなら次の軸で、としていくのが良いのでは、というのがナシアガミーの多元主義である(と僕は理解している)

 

現代精神医学のゆくえ―― バイオサイコソーシャル折衷主義からの脱却

現代精神医学のゆくえ―― バイオサイコソーシャル折衷主義からの脱却

 

 

これは特に外傷体験をもつ患者の治療に大いに役立つかと考える。

まずは精神病圏の軸で治療、次は鬱の軸で治療、ダメなら精神療法的アプローチ、といった順に行い、本当にこの患者に対して必要なものは何かを考える。

典型を捨てるが故の、治療戦略として現代の精神科医が知っておかなければならない考えなのである。

 

 

そして、そんな時代に精神科のレポートを書くのはとても難しい。

典型を語れず、鑑別を語るには診療時間が足りず、治療を語るには字数が足りないのだ。

結果、「こう診るとする」として書くしか無くなる。

 

経験を象徴するための字数制限のあるレポートは、それ自体がとても自己矛盾的に感じるのだ。