Psyは投げられた

若手精神科医が有る事無い事色々つぶやきます。

【国際会議】スイス人と解離性障害の話で盛り上がるなど。【精神科】

この3日間はintensive course of academic development : 学術技能を鍛えるための国際学会 を主催しています。

京都の宿に泊まりながら、あーだこうだ言いながらみんなでプレゼンを磨きあったり、偉いさんの講演を聞いたりします。

 

今年は“future psychiatry"というテーマで、AIの専門家や、WHOの元精神科部長からおはなしを頂く予定でした。が。。。

このコロナウィルス騒ぎによって、一番の偉いさんが「僕いきません」となったり

そのせいでこの会自体が存亡の危機になったりしました。

 

でもなんとか開催するぞ!と強行し

結果皆参加の意思を示してくれました。

普通の学会とかだと、こういう場面でみんな来ないとなることが多いのですが、

私が主催した会の参加者がいかにmotivatedな人たちか、ということに気づくことができました。

 

今日からが本番ですが、昨日から前のりでみんなが集まっており、前夜祭ということで近隣の居酒屋に行きました。

そこで話したのが、ほんとうにpolite でhumbleなスイス人精神科。

かれの興味は「dissociative disorder(解離性障害、多重人格」で、かれの国でも「多重人格なんてない、詐病だ」と言われる文化があるそう。

でも「そういう人って育ちの傷があるんだよね」と聞いてみると、「そうそう、そうなんだよ!cPTSDのオーバーラップがね」などと盛り上がれた。

 

毛色、程度、文化の違いがあれど、精神科で出会う外傷的育ちのスペクトラムは国際的に共通である、ということを知ったのでした。

 

 

 

また年末になると、ブログ欲があがる

昨年のちょうど12月に、このブログを始めた。

毎日1更新を目掛けてきじを書いていたものの、ジョジョに疲れが見えて、結果110記事程度になっている。

 

 

ジョジョーーー!!!!お前はそうやってまた怠惰な毎日をおくるのかぁぁ!!!!

 

 

ということで、また記事更新を頑張ろうと思います。

 

実はこのブログ放置していても、のべ1000アクセスぐらいはあるようです。

おそらく複雑性PTSDや外傷的育ち系のお話で検索して見てもらう方が日本中に10人くらいいて、その人が80記事ぐらいを読んでくれて、1000アクセスの下地を作ってくれているのでせう。

 

 

一般の人が知りたい精神科の内情を、もうすこしお話しできるように、もっと記事更新をしていきたいと思います。まる。

【メンタライゼーション】メンタライゼーションとマインドフルネスは感情の自己認識をトレーニングする方法である【BPD】【マインドフルネス】

 今週末は、外傷的育ちという概念を日本に導入し、その普及と治療に尽力されている崔先生の講演を聞いてきた。

 

メンタライゼーションでガイドする外傷的育ちの克服

メンタライゼーションでガイドする外傷的育ちの克服

 

 

外傷的育ちと愛着障害 - Psyは投げられた

僕の記事にも幾度も登場する外傷的育ち。本を読んでなかなか理解できないことや、読んだ上でさらに経験を積んで復習することで理解できる部分が増えてきた。

現在BPDのエビデンスある治療としては、DBT(弁証法的行動療法)が主たるもの、MBT(メンタライゼーションに基づく治療)が最近エビデンスを得て強くなりつつある、という状況であり。世界的にはDBTがかなり主流なのだが、DBTの中身は、ざっくりと言ってしまえば認知行動療法とマインドフルネスなのである。

最近マインドフルネスを集中的に学んだため、メンタライゼーションをみる目が少しはっきりしたというか、理解の幅と深さが変わった感じがする。そのまとめを簡単に記しておきたいと思う。

 

端的に言うと 「メンタライゼーション、マインドフルネス双方とも、スタイルは違うとはいえ、感情の自己認識をトレーニングする技法」と捉えられるという点だ。

 

 双方ともに、自分の感情について注意を向ける練習をする。メンタライゼーションの文脈では、主に振り返りを行いながら自分が対人関係様式の上で苦しみを感じた時の、その直前にあり感情調節不全に陥った原因となる心理について観察をする。治療者が、本人の問題のある対人関係パターンに陥った場面の話を聞き、何度もしつこく「そのタイミングではどんな感情だったんだろうか」と問いかけながら本人の制御不能な状態に陥った時に感情を理解し、認知が歪んでいればそこの自己修正を促進していく。

 マインドフルネスでも、自身の嫌な感覚を思い起こしながら、それがどのような身体的感覚につながっていくかを追体験することにより、自身の感情の表出のされ方を学習していく。その中で、感情や思考はうたかたの泡のような存在であり、一時の感情で突き動かされるのではなく、stop breath notice reflect respond という手順をへて感情への妥当な対応を理解していく。

 

 BPDのような病理化をしていないとしても、感情への対応技法は対人関係に影響を及ぼす。仕事でのパフォーマンスに大きな影響を及ぼす上で、マインドフルネスは職域や人材育成に適応性が良い。おそらくこれは変形させたマインドフルネスでも効用はあり、自己トレーニング法としてのマインドフルネス、対人支援の技法としてのメンタライゼーションと、うまく使い分けられそうである。

 

 

【マインドフルネス】たまには電車でかえろうか

今日は金曜日。田舎を離れて、都会でゆっくり酒でものもう、と、夕方の空港にたどり着く。

定時で車で乗り込めば、夕方の便に間に合って、夜の飲み会に間に合うようにできている当地域。優秀だなぁ、とこっそり思っている。

 

でも、実は優秀じゃないうちの地域。それは、飛行機の就航率が低いこと。

天候が悪かったり、機材繰り(飛行機の行ったり来たりで遅れた結果 とべなくなる)のせいだったりで、よくよく欠航する。

 

今日も欠航。理由は珍しい、bird strike. まえの便で着陸時に鳥にぶつかってしまったから欠航、ってやつ。

鳥にぶつかったぐらい良いではないか、と思うものの、話によると鳥にぶつかったらその残骸がエンジンに すいこまれたりする事もあってよくないんだと。

つい直前まで普通にうごいていた飛行機がいきなり欠航になる。乗客の多くは結構欠航の心の準備を しているから、今日は飛びそうだな、なんて思っている分、かなり「えー」とくる。

 

そんなわけで、飲み会の予約を入れていた自分は、遅れるけどごめん、 といいながら電車で都会に向かうわけである。

 

 

 

いつもの交通、いつもの動き。無意識にいつもしていることから少し離れて、いつもしないルートで目的地にむかう。すると、気づくことがたくさんある。

 

駅に向かう道。いつもは車で走り抜ける道を、ゆったりと歩いてまわりをみていく。砂場があったり、緑のフェンスを見つけたり。架橋の柱の横を通るときに、後ろから車のライトで照らされると、あぁ、照らされる人はこんな思いなのか、と感じたりもする。

いつもは1時間以内のフライトで都会につけばわーっと飲みに出るけれど、

不可抗力ではあるが3時間のロングライドをゆっくりとすごす。

飛行機の時の座席の揺れは、電車だと緩やかな横揺れで、

カーテンの触り心地や、座席でゆっくり眠れる特権を感じてみる。

こうやって、今いる自分の感覚に目を向けて、当然のように感じてしまっているいつもの感覚を客観化する。なかなか向けない注意をお尻の感覚や空間の意識に向けて、ゆったりと今いる場所の空気や、この場のゆったりとした 流れを楽しむのである。

 

いつも無意識の下に行ってしまっている行動や習慣を、意識の上にあげて、そして今している行動に目を向ける。この練習がマインドフルネスである。

 いつも意識しないことを意識下に置いて感じること。すると自分が現在の今の場に居て、行動していることに注意を向けることになる。そしてそれを続ける間に、自分が今居ること自体が神秘的で、ありがたくて、という気持ちになるのがマインドフルネスである。

 

マインドフルネスは宗教的な様子に思われたり、怪しい、 とおもわれたりする事も多いが、実際はこうやった意識の向け方に着目した筋トレに近い。 むしろマインドフルネスと銘打って宗教や信仰に話題を揺るがすのは、マインドフルネスではないのである。

 

マインドフルネスを知り、非日常を楽しみ、日常を見つめ直す大切なツールになっている。僕のとても楽しい習慣になっている。

 

【家族】精神科医は家族のカウンセリングはできない

 精神科医・心理士は、心理的な介入を行う時、そのクライエントの状況を客観的に解釈しないといけないし、クライエントも自分の状況を知らないものとして説明的に精神科医に訴えないといけない。これは「診察」というものの前提となっている。

 カウンセリングの関係にあるものが、その客観性を失うときはどういう場合か。それは、家族や親密な関係の相手がカウンセリングを求めてきたときである。

 心理的介入を家族に対して行う場合、それは一般的な精神医療・心理的介入と質を異ならせてしまう。クライエントの訴えは、自身の状況、考え方などをある程度知っているものとして訴えるし、またカウンセラーへの感情(期待、依存、恐怖など)を持ったなかで 歪んだ訴えになる。治療者も、過去の当該患者との関係性のなかで本人への印象が客観性を保てず、解釈や理解が歪む。そのなかで関係性をこじらせてしまうのが関の山である。

 

 喧嘩ばっかりしていた子供が、カウンセラーをしている。私最近しんどい、相談しよう、何か助けになってくれるかもしれない。こういう考えは持つべきでないものだ。

 第一に、家族であれどその人の専門性を蔑ろにしている。他人の話を聞いてアドバイスして金銭を得ている職業の人に、その専門性を持って施しを受けようとしているわけだ。カウンセリングは心理的な負荷もかかる作業であり、業務外でしたいことでは決してない。

 専門性という点では、「整形外科の息子に腰の治療の方針を聞く」というものと大きく違いはなく感じる。しかし、骨という自他が完全に分離しているものを標的にするのではなく、「感情、心理」というものは分離はしているもののその分離が成長の過程で行われる(つまりは幼少期に伴走した)ため、大きく異なるものである。

 第二に、カウンセラーになった理由を考えてみたらいい。対人関係性での心理に興味のみならず苦痛や恐怖も感じてきたはずだ。その経験を積み重ねた相手が、どうして家族以外のところだと考えることができようか。つまり、貴方との関係の中で苦しみ、カウンセラーになった可能性も十二分にある。そんな中で上記のような訴えをすれば、冷静に考えて冷静な判断を下してもらえるはずがないのだ。

 

 

 

 なんでこんなことを書いたかは、お察しいただきたい。

専門医になりました。

こんばんは。

本日、日本精神神経学会の精神科専門医 合格通知が来ました。

 

専門医とるのって、かーなーりめんどくさいのです。

3年間病院をいろいろと回り、必要とする症例を わけてくださいと先輩にお願いし、症例を50個記載して、レポートを10本出して、どれがどの必須項目を満たしているかをマトリックスで丸つけして、2000文字に収まるように必死に添削して、提出したら用紙サイズが違うとか言われて提出し直して(そのまま印刷したのにダメと言われる理不尽さ)、正答のない過去問を必死に解いて抑うつ気味になって、1時間押しの面接で必死に言葉を紡ぎ、2ヶ月待ってやっと手に入れられるのです。

 

でも、精神科で真に重要な(臨床に必要な)資格は「精神保健指定医」という、強制入院などの効力をもつ資格なので、専門医は少し前までは取らずに一生を過ごす精神科もいるほどだったんですね。(今はないと処方しにくい薬もあるため、とる若手は増えている)

 

最短医者6年目で取れる専門医って、本当に「専門医」という言葉に適しているのか分からないほど薄い知識なのですが、それでも本当に苦しんでとったので、ちゃんと更新して維持していきたいと思います。

 

思えば4月に病院に2週間ほど泊まり込んでレポートを書いて、クッセー俺ってなってたりとか

過去問の答えがなくてハゲそうになりながら3kgぐらい太ったり

もうこのしんどさを後輩にさせたくないと思って勤務先で専門医勉強会を画策したりと

専門医を取るためにかなり毎日の自分の生活を犠牲にしました。 疲れました。

 

でもね、それだけ がんばっても、給料が上がるわけでもないのよ。

公立病院だから資格持ってても給料あげませんって、変だと思うんですよね。

こんなのだから医者があつまらんのじゃと院長に直談判しようかと思います。

物申す医者が増えることが、本当の働き方改革だと思っています。

 

 

あまり落ちなし。おわり。

【マインドフルネス】Search inside yourselfでリーダーになるための準備を始めたョ【人生変わるかも】

ブログの更新が滞っていてすみません。

この休日2日間はGoogleが社内で始めたマインドフルネストレーニングカリキュラムである、Search Inside Yourself (SIY) プログラムに参加してきました。

 

2年前に現病院に赴任してから、マインドフルネスというものに出会い、その可能性を強く感じたのちに、しかしそれをシッカリと勉強したり深めたり実践したりするタイミングがなかったのでした。

禅の思想、マインドフルな云々カンヌン、一見すると宗教的な匂いもして、ちょっと近寄るのが怖いと思ってしまう人も多いマインドフルネスです。しかし、マインドフルネス自体には、そういった宗教色や洗脳などの問題は全くなく、ただ単純に「意識のセルフコントロール」「感情のセルフコントロール」を行い、自己の自動化された部分を再度意識の俎上にあげ、未来や過去の思考から一旦外れて「今ここにいる」ことに意識を向ける練習です。(マインドフルネスとそういった洗脳や宗教を交えているのも実際にあるのかもしれませんが。。。)

私たちは日常の行動を自動化してしまいます。食事が出れば勝手に箸が伸びたり、怒りが沸けばすぐに顔や発言に出たり。状況や感情、習慣によってオートに物事が進んでしまうモードになっています。自分の感情や状況と、行動の繋がりに意識を向けていないわけです。ボーッとしているようでも、頭の中には色々な思考が泡のように出ては消え、出ては消える。そのような状況に「気付いているか」という問いかけをマインドフルネスでは行うわけです。

しかし、そういった思考や感情は時間と共に消えたり、変わったりします。「私は怒っている」と怒っている状態=私のように考えがちですが、そうではなく、「私は今、怒りという感情を持っている」というのが正しい把握です。つまり、荒波のような怒りという感情に自分が乗せられている、でも自分はここで転覆しないようにどう波乗りをするか、と考えをメタに持っていく、これがマインドフルネスです。

こういった感情的な認知力を、emotional Intelligence(EI,EQ)ということもあります。マインドフルネスではEIを強く鍛えることができ、そしてこのEIこそがリーダーシップを磨いていくのに非常に大切な要素である、ということからGoogleで作られたプログラムが、このSIYというリーダーシッププログラムでした。

 

SIYは、マインドフルにすごし、自己認識、自己理解を深めながら、動機付け、共感力、リーダーシップをつけていく、という過程を2日間でみっちり行うプログラムです。9時5時で2日間過ごしますが、思ったより疲れませんでした。おそらくこれは自分の感覚や意識に目を向けるからでしょう。疲れとは主に自分のしたくないことや自分の体力に見合わないことを自動的に行う結果に起こる事で、自分に目を向けて無理をしないから疲れないのかな、などと感じていました。

 

2日間で、何十回も瞑想を繰り返しながら「今ここにいる」ことを理解していきます。時に嫌なことや「頭に血の上るような体験」を思い起こし、その感情が身体的な反応を起こすことを感じます。しかしそれはあくまで自分の一時的な感情であり、扁桃体に操られた反応であることを理解し、「怒りと自分を同値とせず、その怒りの波の上で自分を保つ」練習を行います。また、search inside yourselfであり、自分の価値観や自分のしたいことをシッカリと見つめ直す瞑想も行います。

 

 

この二日間で、自分が得た非常に大きなこと。それは、自分が気づきの中で使命感に燃えていること、そして過去と決別して今に生きようとしていることでした。

 

価値観を掘り下げ、自分がどういった人間になりたいかを書くジャーナリングの瞑想の中で、自分はここ最近感じていた「ダルダルと過ごして楽して生きていきたい」という気持ちでなく、「働くことのやり易さ、生きやすい働き方を推進していくような活動を、ミッションとして見つめていきたい」という気持ちをすらすらと書いていました。自分が、バリバリと人のために、力を使っていきたい、あぁそう考えていたのか、と考えたのでした。

日々の疲れの中で、このしんどさから逃れたい、それが自分の価値観だと勘違いして( 疲れている状態=自分=価値観)、だらだらした生活を送りたい、そんなふうに感じていたのだなと気づきました。自分の状態を自分とイコールで結んでしまっていた、 ということでしょう。

そして、それは今の臨床をただただ続けるだけのところに見ていない自分がいること、ポジティブ心理学などの観点からも健康な人をより健康に、健康な人を不健康にしないための精神医学の使い方を模索したい、ということにきづけたのでした。

 

今までは、しかしこういった気持ちを「きっと誰かに馬鹿にされる、否定されるに違いない」と考えて蓋をし続けていた自分がいました。そしてそういう思考に陥る原因を幼少期の苦しみに帰属させる自分がいました。

でも、「感情、思考はその時々の一時的なもので、 それが自分とイコールではない」「自分はそのネガティブな思考やできないという想いと同値ではない」という気づきを得ることで、己の感じたいがままを感じ、やりたいがままをすることについて、とてもポジティブに考えられていることに気が付きました。

過去のダメージを受けた自分は自分、しかし、その上に積み重なった今の自分を愛してあげること、セルフコンパッションの力にきづけたと感じます。

 

この二日間の学びをもとに今の環境、そしてこれからの自分の未来をマインドフルネスと共に耕していきたいと感じました。おわり。(おちはない)