外傷とは見えない足枷のようで
このブログを自分のフェイスブックに投げるようになってから、「お陰で自己理解ができた」「自分もこの外傷的育ちってやつだと思う」と、コメントやメッセージをいただくことがあります。
自分の苦しみは、自分の力だけでは分からないことが多くて、自分を他人に照らし合わせることで見えてくるものもおおいなぁ、というのが私自身の感想でもあり、そしてそれをぼくのブログの読者も感じてくれているのだと思います。
なぜ自分はこんなにも死にたいのか。
なぜ自分はこんなにも人生を楽しめていないのか
周りの人はもっと楽しそうなのに、なぜ
こういう訴えは、時に「かまってちゃん」や、「利己的な訴え」のように見られてしまい、周りの人間は「あぁメンドクセ」とあしらうことも多いものです。しかし、その当人にしてみればこれは心からの訴えであり、死にたい、あるいは人生がつまらないというのは本当に絞り出された言葉であることも多いのです。
「人生を楽しめない?周りのこととか気にせず、自分の好きにすればいいんだよ!」そういった短絡的な返答は、時に当事者を苦しめ、「私は自分のすきが分からない」となります。これは甘えでも想像力の欠如でもなんでもなく、時に若き頃の愛着や安心の欠乏によるものなのです。
外傷的育ち、あるいは愛着障害といった概念は、「親からの愛情」という直接的なものも問題になりますが、僕は「学校でのいじめ、それに気づけない両親」といった構図も外傷形成に強い影響を与えるな、と感じます。
いじめは本当にその人の将来を歪めます。もちろん、霜降り明星のせいやのように、そこを跳ね返すだけのパワーを持っている人もいますが、そんな人ばかりではないのです。いじめはもっと問題にされるべきだし、なんなら子供たちにもっと圧力をかけたり厳罰を与えたりしてでも「いじめはいけない」と伝えるべきだと思います。子供は何かしらのかたちでSOSを出すのだけれど、それに気づけない大人たち、あとからそれが噴出されれば「いじめられる側も悪い」だとか「自分でもっとこえをあげろ」と出来もしないことを言う。
いじめの経験と、精神科受診率、何かしらの症状出現率などをしっかりと研究しないと、いじめ対策に走れないのでしょうか。いじめ0を目指していじめをなくそうとすればするほど、隠蔽気質が出始めて学校はみないふりをしたりするのでしょうか。人間のそういった性質はなんとかコントロールできないのでしょうか。