Psyは投げられた

若手精神科医が有る事無い事色々つぶやきます。

社会的規範を守ろうとする子供と、気にしない母

夏休みの終わり、九州から変える際に飛行機が欠航してしまったため、やむなく乗り慣れない新幹線にのるときの出来事。

 

飛行機以外はオンライン予約システムを使っていない僕は(圧倒的に陸路を使う機会が少ないため)、自由席座席を確保するため、乗る15分ほどまえからホームに並ぶこととした。

 

幸い、僕の前にはひとりの親子連れ、おそらく50前後の母親と、中学生前半ぐらいの子供。青いトランク一つを持って、3連休に小旅行でもしているのだろうか。

 

僕がその親子の後ろに並んだまさにその時だった。母はトランクを列に置いたまま、ホームの座席に座ろうとした。

息子は、「いや、並んどくよ」とトランクの横に立っていようとする。しかし母は「大丈夫よ」と息子を座らせようと嗾ける。2回ほど同じような問答が繰り返されたのちに、母は、「大丈夫だって、見てるのよ?取られたりしないって、はい向こうで休むわよ」と声高に、抑揚強く訴え、根負けした息子は母に連れられてホームの座席に腰をかけた。その後も、歩きながら母が9割程度話をし、息子が少しそこに口を合わせる、と言ったコミュニケーション様式が続いていた。

新幹線の時刻が近づき、戻ってきた息子は、母に気づかれないようか、申し訳なさそうに僕に会釈をした。「大変だね、君も」という想いとともに、僕は微笑み返した。若き頃の自分を見ているかのような気持ちだった。母親は、自由席に座ってからも、せわしなくパンを食べたり、ビニールをガサガサしたり。息子の顔は見えないが、きっと笑ってはいないのだろうな、と感じてしまった。

 

 

 

母親はきっと息子の行動の意味、つまりトランクの横に立っていようとするという気持ちの裏側に、社会的規範や他者への申し訳なさ、という点があることに全く気づいていない。「他の人は並んでいるのに、自分たちだけがトランクを置いたことで列に並んでいることにして、さらにホームの席でくつろぐ、そう言った行動の公平性のなさ」を問題視しているのであるのだが、母はその行動を「まるで過剰な心配をしている」かのようにうったえて、自身の行動につきあわせようとしてしまうのである。

 

 

 

この記事では、自身の感情や利己的な行動への疑いを持たない、アロガントな母親の批判を直接したいわけではない。息子への憐憫の情を訴えたいわけでもない。母子関係における行動や感情の押し付けは、往々にして子供の性格発達に影響を及ぼしうる事を記し、最近の懸念や目標についてメモを残そうと思ったのだ。

 

「母親の機嫌をとるために自分は必死に生きてきた」「母親を怒らせたら飯抜きや無視が当たり前だ」「自分がちょっとした行動をするにも全てコメントが飛んできて、母親の思う通りにならなかったら何度も行動を変更するように説得される」こう言った訴えが、長年治らない「うつ状態」の患者によく見られる。たとえ成人した女性や男性であっても、未だに行動の一つ一つにコメントが飛んでくる両親というのがいる。精神科医からすると、「本物のうつ病じゃない、薬も効かない、厄介な状態」にも見えうる患者だ。そしてこういう患者が、雑な精神科医心療内科医にかかると、流行り病のように「発達障害的な苦しみ」などと診断されてしまうことも多い。

 

発達障害ではない。発達障害とは、厳密に言えば「神経発達の異常が見られるために性格傾向の偏差がある」ことであり、つまり脳みそ自体が人と違う人に付く名前である。

 

一方、両親に振り回されて幼少期を過ごす、これは(強い虐待では神経の構造変化が起きる、とも聞くが)おそらく神経発達の問題ではなく、性格の発達、そういったものが歪む。性格というとよりambiguousなので、僕はこういう場合に「自尊心」とか、「行動の自己決定権」という言葉を使いたい。自己効力感、sense of agency in lifeなどとも言い換えることもできるかもしれない。要するに、「自分のしたいことを、自分に培われた経験や価値観から生み出し、そしてそのしたいことを実際にする」能力についてである。

したい事を素直にしたいと伝えられたり、逆にやりたくない事をやりたくないと言える能力。これは、この先の世界において一番重要になってくる能力である。「したいことをして生きていく」というyoutubeの宣伝に代表されるが、ホリエモンキングコング西野の昨今の主張にあるように、人間の単純労働力にはあまり期待されず、独創性、主体性、好奇心といったものが大切になっていく世の中である。

これが幼少期に家族関係において育まれなかった場合に、自尊心を育む場所はいくつかある。例えば大学で家から離れて、自分のコミュニティで新しい自分の価値を見つけられた場合。あるいは職場で自身の能力が認められた場合。そういう場所で後天的に(後家族的というか)見つけられるのは、おそらく男性が多い。以前社会進出や積極的な労働へのスティグマが多い日本において、女性はこのような機会も少なくなっている。(事実そういった難治のうつのような症例も、女性に多い印象だ。)男性の場合は、引きこもってしまうことも多い。以前元政務次官か誰かが引きこもりの息子を殺してしまった事件があったが、ホリエモンがその事件についてのコメントで「あぁ、かわいそうだよね、きっと色々両親に言われ続けて辛かったんだろうね」とまず息子の方に共感を示したことも個人的には記憶に新しい。

一人暮らしをするというのがその中でまず取れる回避手段なのだが、20代前半で結婚し、家庭にはいってしまった女性などではさらに難しくなる。多くの場合、そういった女性は趣味もなく、しんどいながらに家事を行なって、しあわせな感情を得られずに毎日苦しんでいる、そんな印象である。

アルバイト、パートをさせて、少しでも自分の時間を作ってみたり、家庭や喧騒から離れる時間を作ってもらう、なども試して見るものの、どういった行動を取るにもハードルが高く、周囲の意見を気にして、となってしまう人も多い。

ここをどうやって動機付けしていくのか、それが昨今の外来のテーマになっている。

 

 

専門医試験が終わりました

精神科医にも専門医、というものがあり、ある程度の技術を持っているものとして認定される資格がある。

テスト、面接(ロールプレイ)、症例報告などで総合的に判定される。

 

昨今、専門医制度の刷新が医療全体で行われようとしている。

専門医を持っていないと、ちゃんとした医者として扱われず、後進の指導に値しない、ひいては標榜科として名乗れない(ここは精神科のクリニックですよ、と言えない)ようになるらしい。

まぁ、今のクリニックには標榜科の制限が少なく、「名乗ったもの勝ち」なので、だいたい適当に心療内科、とつけて適当にベンゾジアゼピン系を処方し老人を転倒とせん妄の渦に追い込むクリニックが多いのだから、まぁこの流れも仕方ないと精神科の医者としても感じる。

 

そして、僕も専門医の試験を終えたわけである。

まだなれるかどうかは確定していないけど、面接も結構いつもの通りに話ができたし、面接官としっかりdiscussionできたつもり。

これで、またブログ掲載にちからを入れられる、というわけである。

 

このブログも100きじを超えたあたりで止まっていたわけだが、実は結構読者がいるようで、グーグルからの流入が毎日2ー30人、たまにハマって読んでくれる人がいるので、更新をサボっていても月1000ビューぐらいはあったようだ。

それなりに読んでくれる人がいるなら、もっと精神科の知識や精神科医療、メンタルヘルスを身近なものにするために、皆さんに発信していきたいと感じた次第である。

 

今の田舎病院の勤務が終わったら、精神医療に携わったことのない「健常人」に、メンタルヘルスをより広い人に啓蒙していく活動をしたいと思っている(具体的には、精神的な健康を保つ秘訣や、仕事場での指導において後輩のメンタルヘルスを保つ方法、自分のメンタルを落ち着ける方法、など)ので、そのアイデアストックにこのブログを使っていきたい、と考えている。

 

皆さま、雑多なブログではありますが、これからも是非ご愛顧下さいませ。

 

人生の優先事項、人生で大切にしたいものは時事刻々と変わる。

正直、若い頃は、大学でアカデミアで残って、教授になる、っていうのが自分にとっての一番良い人生だと思っていた。

でも、最近は、アカデミアに残って“偉く”なることだけが自分の人生の物差しとして大切なわけではないと思ってきた。

 

もちろん、教授も、研究に強い人も、論文をモリモリ読んで書いてできる人も素晴らしいと思う。

でも自分が一番楽しめることはそれだろうか、って感じる。

 

 

医師免許を持っていることが、医師としての生き方を規定するわけではない。

それはわかりながら、みんな“ロイヤルデューティー”みたいな観念で研究をすることが大切とかんがえる。

それは教育の場面が、そういう人たちによって担われているからかもしれない。

 

国や世界を変えるのは、たしかに新しいエビデンスかもしれない。

でも産業の方向や、もっと違う観点からかもしれないよね、なんても思う。

そして、そういった追求を許される環境が必要だよな、と思う。

自分はそういった方向に今興味が向いているのかもしれない。

 

 

 

こういった価値観の変化は多分誰にでもあるんだ。

「親が「そろそろけっこんを」「そろそろ子供を」なんて言ってきて、プレッシャーに感じるんです。」

「あなたはそうしたいと思っているの?あなたはこんごの人生をどう送りたいと?」

→結婚すら自分の人生にとって必要なものだと思っていない、子供なんてもってのほか、なんて人も。

もちろん医師から誘導尋問している可能性も考慮しながら面談を進めるわけだけど、

実際にこのパターンの人が多い。自分の価値観を築けていない人。

でも、「じぶんが正しい、じぶんがいいと思ったこと」をやることに慣れてきていなくて、親に言われるままにいきてきているから、

じぶんが「どういう人生を」送りたいか、なんて聞かれても、想像できなくて、聞かれれば自分の苦しさを助長するだけ、なんていう人もいる。

そういう人には、「自分が自分の楽しみを持つこと、じぶんが自分の価値観で生きていくことは、何も問題ではなくて、それが本来的である」ということを理解してもらうことから始めないといけないことも多い。

そして、じぶんが他人の意見や評価に左右されていることにきづいて、初めて治療がはじまる、なんてこともある。

 

 

 

じぶんがそうだから、相手にも伝えられる、そんな僕にしかできない領域として、そういう話をすることが多い。

うつって言われれている人の数割は、そういうアダルトチルドレンが潜んでいる。

僕はそういう人を拾って救って、自分の道を進むちからぞえをしたい、と最近思っている。

 

いい事日記2019/05/28

昨日の晩は深夜までレポート作成。しかし今朝も一仕事するために8時前に病院へ行けた

初診のご指名が2名ほど。僕は初診してないけど指名されると取ることも。

いつも話が盛り上がらない患者に、なんで髪切ったんですかって言われて返答でウケを取れた

昼の自炊ができた。肉と玉ねぎ炒めた牛丼の上でお昼を済ませた。

間食してない!

早く家に帰れた!(仕事諦めた!)

王将があまり美味しくないと感じられた!(ダイエットに対してポジティブな感情)

友人の相談を受けた。片道200キロ以上かけて僕の外来にセカンドオピニオン来るらしい。電話とかで相談されないあたり専門家として大切にされている感じがする。

 

 

いい事日記2019/05/27

朝早くに出勤して、3つも書類を仕上げた

そのあとケトン体コーヒーを作って飲めた

朝はあまり間食せずに済んだ

患者と一緒にこの1年の前進を確認できた。患者母も嬉しそうで、役に立てた感じがした

指定医レポートに着手。これはちゃんとやらねばだ...

昼ごはんは迷った結果やすくてカロリー低めなのにできた

晩御飯も控えめにできた

この時間まで集中してレポート書けた。

帰ってビール飲みたいけどノンアルにできた。

明日の昼ごはんを作る事ができた

 

 

今日のいい事日記をつけよう

自己肯定感の低い人に、自分の喜ばしい感情に気づいてもらうべく、いい事日記をつけようと持ちかける事がある。

 

いい事に目を向け続ける事で、簡単に自己否定に走ってしまう自分にストップをかけていく事、そして自分がいい事の総体として生きているのだと気づくための方策である。

 

患者に言っておきつつ、自分でそれを実践出来ず、後ろ向きになる事もしばしばなので、僕も患者に倣って自分でやってみようと思う。100記事目記念でもある。

 

 

2019/05/25-26 今日のいい事

ニュージーランドシャルドネメドックを飲んだ。ワイン勉強してから頭でも楽しめるようになった。

バイト先の後輩と酒を飲んだ。若いパワーをもらった。しょうもない話で盛り上がれた。

朝ホテルで友人と出くわした。朝からテンション高く話した。

教養について考えた。何もない自分に何かを足していくのだ。

昼のキッシュが美味しかった。食べ過ぎず、食べなさすぎず。

意識的にゆっくり休む事ができた。ラウンジでマインドフルネス。

NPOの仕事が少し進んだ。

アーモンドが美味しかった。

ヒルトンで懐かしい友人に会っていたようだった。(声かけてくれなかったから知らなかった)

天鳳はうまく勝てないけど、押し引きが少しうまくなった気がする

この日記を始める事ができた。

明日からいい加減レポート再開しようと感じられた。