ASDと呼ばれる人にも色々ある。
外来にはたくさん、ASDと呼ばれている人たちが来る。
みんなそれぞれに、いろんな悩みがある。
自分の思う正義にこだわりすぎて、もうちょっと「ゆるい正義」に合わせられないタイプの人
例えば、お店で遠くの賞味期限の商品は日にち順に並べなくても良いというルールになっていても、並べちゃって崩されるとイライラしちゃうとか。
例えば、日中に雑談をしている同僚をみてブチギレちゃうだとか。
どっちも、そのユルさで周ってる、からまぁいいか、ってなれないたいぷ。
いちばんらくになるのは、「まぁいいか」と思えるようになることだけど、それは結構難しい。
いい落とし所は、「周りはそのユルサ、自分はもっときびしく」と自分へのカルマのようにしてしまうこと。
たぶんイチローなんかはそういうタイプかなぁ。
この前自閉症のピアニスト、というのが仰天ニュースでやっていたらしくて、結構患者さんがそれをみていろんな感想を抱いている。
私と似たような人が輝いていて、嬉しい、という人もいれば、
自分にはそんな才能がない。悔しい。という人もいる。
前者の人には、ポジティブなフィードバックをすれば良いけど、後者はけっこう難しい。
自尊心が下がってしまっている人に、「君にも才能があるよ」なんていうとイラつかれてしまう。
そこで、こんな話をした。
生き物、すべてのものは、偏差っていうのがあって、正規分布っていうのをしている。
中心から外れた人は、必ず一定数いる。例えば、音を聞いてすべてピアノで弾ける人。
これはピアノの能力、という点で見れば、偏差値70ぐらい、+2SDとかかもしれない。
でも、じゃぁこの人が人間として優れているなら、どうしてもっとたくさんこういう人たちが生き残ってきていないんだろう。
きっとね、違う軸で見ると、この人は偏差値30ぐらいになっちゃうんだよ。例えば、音がすべて音階で聞こえるから、頭は音のことでいっぱいで、勉強とかは全然できないかもしれないよね。集中できなくて。
そしたら、こういう能力は、切り口によって才能とも障害とも取れちゃうのかもよ。
あなたが「できない」と思っている障害が、もしかして才能にひっくり返ることもあるかもしれない。
ゆっくり自分の力を探して行けると良いね
我ながらにとてもこじつけくさい話だが、しかし実際こんな気もする。
多動の人でも、その多動力を使った活動家となることで才能になることがあるし、
底抜けの明るさとコミュ力を間違えて使って女性に訴えられる男子だっている。
うまく力を使い、うまく自分が輝けるように成型していくこと。これが自分探しには大切なんだ。