Psyは投げられた

若手精神科医が有る事無い事色々つぶやきます。

動機付けと予定説、プロ倫

https://thepsyiscast.hatenablog.jp/entry/2019/01/01/155510

外発的な動機付けは、今時人間の報酬として的確でなく、内発的な動機付けを育てることがクリエイティブな仕事をする上で大切だ、という話を上記の記事で書きました。

 

外発的な動機付けはあまり意味がなく、内発的な動機付けにて人が動く、という状況は、もしかしたら宗教改革の後に起きていたことがそれなのでしょうか。

 

マルティンルターの宗教改革は、ローマ・カトリックにケチをつけ始めたことに始まります。ドイツにおいて教会は贖宥状を売り、「これを買えば罪の許しを得る」といってカトリックの主な財源となっていたわけですが、ルターがこれにケチをつけ(内部でも反対派はいたらしい)、カルヴァンがその根拠を聖書の中から訴えます。予定説、つまり、人間が救われるかどうかは神が予め定めている、という内容です。「神はあらかじめ定められた者たちを召し出し 、召し出した者たちを義とし 、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです」という一節のように、予め定められていることをガン推ししてくる聖書を見たら、今みたいに「贖宥状を買うということで積まれた善行は、別に意味ねーんだよ」という話になります。

このプロテスタント的考え方が普及していったら、人間はどうなるかというと、「働いたり頑張ったりしても、どうせ救われねーんだ」と仕事を辞めてしまいそうなもんですが、意外とそうじゃない。それを述べたのがマックスウェーバーの「プロ倫」における論理で、「予め救われる人がきまっているならば、禁欲的に天命を務め、成功する人が救われるはずだ、だからそれに相応しいように仕事をしよう」として、予定説下において人間は勤勉に発展していったのだ、というものだ。

 

これを先日書いた内発的動機付け、外発的動機付けというものに当てはめてみましょう。

カトリック世界(贖宥状)では、

働く→金稼ぐ→贖宥状買う→罪が償われる

という、金稼ぎによる報酬が明確であったと。

しかし、プロテスタント世界(予定説)では、

決まっている→おそらく自分だ→そんな人は禁欲的なはず→働く

と、少なくとも働く理由が後付けの報酬ではないわけです。

「自分は救われる人間なんだ」「働きたい人間なんだ」という形で、自己実現のために仕事をしているようなものだとすると、これは内発的動機付けに近いものなのかもしれません。「使命感」を感じて先に進むパワーでプロテスタント文化は栄えていったようです。

 

「自分の努力に対して正確に相関する報酬を受け取れる 。そういうわかりやすいシステムであれば 、人間はよく働く 。そう思っている人がすごく多い 。雇用問題の本を読むとだいたいそう書いてある 。でも僕は 、それは違うと思う 。労働と報酬が正確に数値的に相関したら 、人間は働きませんよ 。何の驚きも何の喜びもないですもん 。」という内田樹の言葉もある。人間は働く上での驚き、喜びのために働いているのかもしれない。金銭のためではないのかもしれない。