Psyは投げられた

若手精神科医が有る事無い事色々つぶやきます。

緩和ケアにおける無神教国家の弱点とその打開としてのマインドフルネス

先日、友人と酒をのみながら話していたこと。

 

アメリカにおいても、どこにおいても、自分の信じるGodが常にある。ドラマで描かれる宗教間対立においても、お互いのgodの下に戦いやテロリズムが起きるのであって、「信仰がある」ことが当然である。日々祈り、頼り、生きていく支えとしているのが海外諸国である。

 

 

 

 

しかし、日本にはそれがない。仏教、儒教的精神を引き継ぎつつも、毎日祈ることはなく、仏が私を守ってくれるわけでもない。多くの日本人にとって宗教は冠婚葬祭の時のみの存在であり、新興宗教が幅を効かせている中で「信仰がある」ことは、むしろ他者からすると稀有であり、異様な、語弊を恐れずに言えば「嫌悪感」を抱かせてしまうこともある。だからむやみやたらに自身の信仰を他者に話すことを控えていることが多い。

 

僕の別の大学の後輩は、あるキリスト教系の宣教師をしていた。彼は大学を休学して、宣教活動に専念し、その後部活の大切な役割を再度勤めてくれていた。彼のその嫌味のない素晴らしい性格、そして種々の活動に対してひたむきに注ぎ込む様子は、僕たちに「信仰がある」ことによる嫌悪感は何ら抱かせなかった。むしろ、宗教という支えがあることで、彼は私たち以上の強さがあることを感じさせた。

 

日本には基本的に「人生の根底となる支え」のような宗教がない。だから、死や苦痛を前にして、拠り所にするものに乏しい。

 

海外では、緩和ケアの場面で、「苦しい時に何をするか」という選択肢の中にペインキラーなどと並んで「牧師を呼ぶ」というものがあるそうだ。つまり、自身の苦痛を漏らして、そして共に祈ることで自身の苦痛に意味をもたせたり、争ったり、受け入れたりする素地があるわけだ。「無神教の人の緩和ケアにおいて、どういうことに気をつけるの?」と聞かれて、先述の友人は困り果てたらしい。だって、日本は無宗教が当然であり、前提なのだ。

 

日本にその代替となる宗教、その他習慣はない。緩和ケアの精神的フォローといっても、精神科医や心理士が聴きに行く程度でそれはその場での関係性に過ぎず、「人生を通して」信じ縋り頼り支えられてきた土台ではない。「祈る」ほどの絶対的安堵感は得られないのだ。

 

絶対的な存在がない日本人にとって、その代替となるものは何なのか。おそらく「家族」とか、「母」とか、そういった存在がピンチでの支えになる精神的拠り所なのだろうが、これも頼れない人がたくさんいるのは、先述の記事に書いたとおりである。

 

神を頼れず、習慣になった支えもない、そういう人へのブリーフアプローチとして何が使えるだろうか。

 

僕の今のところでの解は、「絶対的なものがない」ことに頼ることである。つまり、絶対的なものはなく、頼れるものはない、ということに頼ることだ。言い換えるとこれが「マインドフルネス」なのだと感じている。

 

何をいっているのだろう、と思うのかもしれない。僕も何をいってるのかわからない中書いてみる。

 

仏教の考えの中では、「空」「無常」というものに近いかもしれない。

全ての事象は複雑に絡み合って、あるところで何かが起きたのが知らないところでこれを起こすかもしれない。しかし、全ての事象(苦しみ、痛み、つらさ、 喜び、イベント、なんでも)の真ん中には自分の心があり、自分の心こそがこの世界を写像しているものである。心が世界をこう見ようと思うと、世界はそう見えてくる、というのが「空」の概念であり、それは言い換えると、おそらく一神教の「神」の存在を、自身の心に置いた考え方に近いと言えるだろうか。

しかし、仏教では「無常」という教えもある。今の苦しみは、決して続くものではなく、いつか消え去っていく。常なるものはなく、生まれて、消え去っていく、全てはそのようなものである、という考えだ。

 

つまり、「苦しい世界を見るのは自分の心のためであり、しかしその苦しみは、いつまでも続くわけではない。苦しみを感じている自分はいるが、それが続くとも限らない、変化し流転するものなのだ」という考えである。

 

神に置き換えて考えれば、「自分の苦しみは神の試練であり、しかし最終的には神が助けてくれる=苦しみが消えるか意味があると感じられる」というものになる。

 

上記のような考え方は、神を信じる人種には逆に受け入れにくいものかもしれない。私たち無神教の人間だからこそ、流転する世界と自分の心を拠り所にする方法が手に入るのではいか、と感じられる。

 

もう少し簡単にしてみよう。苦しみは、最初は小さなものでも、それに集中してしまうと、いっぺんに苦しさは跳ね上がり、自分の精神を占拠してしまうものになる。しかし、その苦しみは、あくまで自分の心がみているから苦しみなのであり、またそれはいつしか消えていくものだ、というかんがえを持つことで乗り越える、という方法だ。

卑近な例を出してみよう。僕の迷走神経反射のことだ。迷走神経反射とは、痛いもの、怖いものを見たり感じたりした時に、顔から血の気が引いてフラフラバタンキューとなっちゃうアレのことだが、実は僕はそれがある。

 

一番最初は、5回生の病院実習で患者の腎生検を見た時だった。

腎臓の組織を見るために針を刺して腎臓の端っこを拝借してくる手技である。患者はお尻を出してベッドにうつ伏せに寝かせられ、麻酔の注射を打たれる。腎臓は表皮からそれなりに深い位置にあるため、麻酔も深くまで入れる必要がある。麻酔薬が充填された注射器と、細い針が、患者の腰に当たる。患者は液が入っている時に「あいててて」と訴える。麻酔薬を奥まで入れるため、注射器を進めるが、注射器のお尻を持つため、針先のぶれが激しい。細い針は手の震えに付随してしなる。プルプルという手の震えと、針のしなりが、あまりにも痛そうに感じて、僕は「うわぁ、痛そう」と感じる。頭の中で少し、かるい頭痛を感じる。あれ、調子悪い、痛そうだし、自分も変な気分だ、と精神が自分の身体感覚の変調に向く。その後本番の腎生検のために、1mmぐらいだろうか、針のカートリッジが刺さったプラスチックの四角い器具が腰にあてられ、「行きますよ」という声とともに「がシャン!」と音がなる。その瞬間に針は一瞬前に出て、そして後ろに引いて、腎組織を取ってくるわけだ。「いきますよ」「がしゃん」「あいたー!」患者の声が聞こえる。僕はその時、痛そうな様子をみて、より顔面蒼白になり、ふらつき、「あぁ、もうだめだ」とその場を後にしたのだった。

 

その後は、献血のたびに、発作が出ていた。

自分の腕は比較的血管が見えにくく、太さもそうない、とのことで、献血に行くと結構失敗される。

最初はどの血管から取られるのが良いのかわからなかったこともあり、看護師さんに任せていたのだったが、一度失敗されて、その後針を動かしながら血管をさぐられることが多かった。その時に、あの同じ軽い頭痛、脳が竦むような感じが出るのだ。やばい、また気持ち悪くなるかな、吐き気とか出てきたらどうしよう、そう思ううちに血管にあたり、献血は進むのだが、自分の中ではその気持ち悪い感覚と「戦う」のにせいいっぱいで、次第に広がっていく不安感、気持ち悪さが血圧を下げ、顔面を蒼白にし、看護師さんに「大丈夫ですか」と血圧を測られる羽目になる。「何回かこれをくりかえされるなら、献血はお願いできなくなることになるかもしれません」などと言われたこともあった。

 

 

この例で言いたかったのは、「苦しみに注目しすぎると、苦しみはさらに大きくなり、症状をきたすにいたってしまう」ということだ。

 

このような弱い苦しみで、神に祈るようなアメリカ人は少ないと思うが、しかし機序としては一緒だろう。

緩和の状態にある患者。100のキャパシティのある頭に、10程度の苦しみが湧いてきた。それに注目して、あぁ怖い、苦しみが出てしまうかもしれない、と思うと、10だった苦しみがどんどん20、30となっていき、次第には100になってしまう。その結果、自分がコントロールできないもののように感じてしまい、苦しみに巻き込まれてしまうわけだ。

 

この苦しみに着目しないように、信教のある人は「祈り」という作業を入れることで、頭のキャパシティの80ぐらいをそこに集中させる。すると、10の苦しみはせいぜい20ぐらいにしかならずに、自分の意識を持っていくことは減る、ということである。

 

しかし、日本人にはその祈りに対応する方法がない。祈らない代わりに、「空」「無常」の概念を用いて乗り越えるのだ。

自分の心の中に10の苦しみが出てきた。しかしこれに注目すると100になってしまう。10出てきた苦しみも、いつのまにかきっと消えてしまうものだから、10出てきたことをあまり気にかけずに、90をほかのことに使おう。

その意識を持って、例えば呼吸に目を向けたり、歩いて足の裏に意識を向けたり、ほかにいろんな方法で意識を苦痛以外のところに向ける。それが日本人にできる唯一の方法なのではないか、と思うのだ。

 

 

 

 

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自分の心の事象を正しく観る、ヴィパッサナー瞑想という方法は、実はマインドフルネスに限らず、境界型パーソナリティ障害の治療として最近話題のmentalizationなどとも関連してくるのだろう。自動的にこういう行動を起こしてしまったが、実際には自分はどう考えた、どういう感情を持ったのかを正しく捉え、自動的に苦しみを増やさない、あるいは間違えた方向に踏み出さないようにする、そんな手立てとして大切なのである。