Psyは投げられた

若手精神科医が有る事無い事色々つぶやきます。

溢れ出すパワーなんてない。漏れ出す無駄を書いているだけだ。

先日、スカイプ会議中に先輩からお褒めの言葉をいただいた。

「きみ、なんかエネルギーどこから湧いてくるん。ブログ毎日更新しながら仕事もしあげてくれるし」

「ブログかくのってかなりなエネルギーでしょ」

 

たしかに、ブログを書くのはかなりのエネルギーなのかもしれない。でも、それは人に読ませるために必死にウンウンとうなって文章を推敲すれば、の話である。

 

素晴らしい文章とは、創作活動であり、無から有を、小から大をひねり出すために、必死に言葉を学んだり、他者からパクったり、自分で考えてみたりしながら書かなければならないので、時間がかかる。一文に何十回も構成を重ねることがある。

これは、むかし英語スピーチの作成をしていた時によく感じたことだ。この一文、この内容を伝えるために、どの単語が良いか、どう伝えるのがいいか、順番は、比喩は、声色は。そういうことを事細かにかんがえながら作るスピーチは、700ワードに何十時間という時間をかけ、読み上げる練習にまた何十時間とかけるものだった。7分間のスピーチに、100時間以上の準備を重ね(そして指導する側はさらにもっと)、構成に構成を、変更に変更を、練習に練習を重ねた。

 

しかしまぁ、このブログは、常日頃考えていることや、何かおもいついたことをただ綴るのみの文章である。昔のスピーチ根性マンに見せるとはずかしいと蔑まれるかもしれない文章だ。言い換えれば、垂れ流しの文章である。(先日うんこをもらしてから便関連の語彙が増えていることをここで読者にお詫びしたい)だからあまりエネルギーを使っていない。

直属の上司には「きみ最近ブログ初めて軽躁やろ、朝しんどいいうてたのは軽鬱ちゃうか」などと言われたのも、うーん、そうでないと信じたい。(躁状態ではじぶんの躁に気づきにくいので、注意は必要である)

 

 

 

垂れ流し、というと、自分の統合失調症を持つ患者が、全ての妄想や対話性幻聴や思考吸入を独語という形で表出していたのを思い出す。「おまえ、この薬飲んだらやばいらしいで。マジで?マジでマジで。やばいってどうやばいん?なんか、目が上がるらしい。目が上がるの?なんだかそうらしい。なんでそんなん飲ませるん?いや、この医者が、これ飲ませたら、1000マン円ぐらい会社からもらえるらしいで。えーでもこの先生信頼してるのにな。そうか、信頼してるもんなおまえ。うん。おまえこの先生信頼せんかったら誰も信頼しないってくらい信頼してるもんな。そうやで。そういえば最近研修医の女医きてるだろ。うん。あれこの先生と付き合ってるらしいで。え、先生マジで!」いや、付き合ってないし、勝手に妄想すんなよ、というか、対話性幻聴ってこんなのだっけ、みたいな。垂れ流し幻聴、垂れ流し妄想、という感じだった。彼に信頼されていたのは多分本当だったんだろう。嬉しい話だ。ちょっと、面白かったのも、正直あって、彼は印象に残る患者の一人だ。そういう垂れ流しにつきあったからこそ、今でもとてもよい関係性を保てている患者の一人となっているのだろう。読者の皆も、私の垂れ流しにつきあえば、よい関係性を保てるかもしれない。

 

 

いつか、自分がかつて書いた素晴らしい文章も、またアップロードしなおしてみよう。それは多分、書くことがなくて困った時に引っ張ってくる感じだろう。