かもしれないの呪縛
医者の世界は、エビデンスがものをいう。
だから、主観を述べにくい。
統計的なエビデンスがなければ信頼されない、
エビデンスにない事ばかりを言えばヤブ医者だ。
そんな時、GABAのチョコとか、グルコサミンとか、コラーゲンとか、プラセンタとか、
そういう吸収されようもないものを「体にいい」とか「膝に良い」とか「落ち着く」とか言って売ってる商品や会社をみると、
世界ってこんなに騙しあって生きているんだなぁ、なんて思って。
僕たちがデータに基づいて医療をして、訴訟のリスクや人権がうんにゃか言いながら怯えながら治療しているのって、正直馬鹿馬鹿しいなぁ、なんて感じてしまうこともある。
GABAで落ち着くとか言ってる商品の、脳内の観察方法は?落ち着くか落ち着かないか統計学的に言えるの?お前らそれ言って恥ずかしくないの?騙して。って思ってしまう。
この世界は、エビデンスがものをいう。
医者は、その癖がついているから、主観を述べにくい。
何でもかんでも「かもしれない」。
医者は議論や運営でも「かもしれない」を連発。
この議論はこちらが優勢かもしれない。
その意見も良いかもしれない。
結論は今決めなくても良いかもしれない。他の意見も聞くべきかもしれない。
かもしれないでは道は進まぬ。舵取りをせねばならぬ。
お医者さんは、だから会社運営や議論に向いていない。運営手法や議論法を学ばないといけない。
君のことが好きかもしれない。
これから君と一生過ごしたら、面白いかもしれない。
君にもメリットになるかもしれない。
結婚してくれたら、嬉しいかもしれない。
100年の恋も冷めるかもしれない。
かもしれないをくぐり抜け、
埋めあわせるは「知らんけど」
理系の関西生まれの人は
絶対多いはず、知らんけど。
君のことがすきやわ、
君がどう思うか知らんけど
結婚したらおもろいかもな、知らんけど
君も楽しいと思うで、知らんけど。
これなら、100年の恋は、まだ冷めないかもね。知らんけど。