Psyは投げられた

若手精神科医が有る事無い事色々つぶやきます。

今年は亥年だけど、トラ ウマ について

PTSD阪神・淡路大震災以降、日本でも理解されるようになってきた概念だが、最近は複雑性PTSDやら、外傷的育ちやら、いろんな言葉が入り乱れている。ここで整理をしてほしいという声があったので、トライしてみたが、PTSDを語るだけでかなり時間がかかってしまったので、今回はPTSDについて。

 

・外傷後ストレス性障害 PTSDの歴史と変遷

PTSDの概念の変遷をまず辿る。外傷性精神障害の研究は、興隆と衰退を繰り返し、戦争ごとに盛り上がる。

 

外傷研究の先駆けはヒステリー研究。サルペトリエール病院という無産者が収容されていた病院の中で、シャルコーの火曜講義、という有名なものが行われる。これは劇場並みのイベントだったようで「文筆家、博士、俳優、高級娼婦たちが、皆病的な好奇心に駆られて」見にきていたとのこと。衆人環視の中でヒステリーを起こさせる、あれである。ヒステリーはもともと悪魔憑き、妖術、悪魔払いといったような宗教的な意味づけをされる事が多かった体験に、科学的な説明を加えるという偉業であり、一種の政治的な大義でもあった。脱宗教的啓蒙、脱宗教的世界観の優位性を示したものであった。シャルコーの弟子であるジャネとフロイトは、この現象の原因を探ろうとする。結果、患者と何年間も話をしてわかるのは、ヒステリーに心的外傷がかならず伴っている、という事だった。ジャネはこれを解離、フロイトは二重意識、と呼んだ。さらにフロイトはその糸を手繰っていくと、性的虐待にたどり着くことに気づく。多くのヒステリー患者が、あまりにも早くの時期に(幼少期に)、1度や2度の性的干渉をうけている、という論を見出す。しかし、そうすると、フロイトパトロンである有産者階級の子供にまでそう言った性的な問題があった、ということを認めなければならなくなる。その中で彼はヒステリー患者のいうことを嘘だとはねのけ、20世紀初頭にヒステリーという外傷研究は頓挫する。(この裏で、アンナ・Oという女性患者が「お話療法」というヒステリーの治療を掲げ、女性と小児の性的搾取に反対するキャンペーンを行う。)

 

次に外傷研究が盛んになるのは、第一次世界大戦である。戦争に出た兵士達は、男性的名誉、戦場における栄光という幻影があったが、実際に孤立無援状態に置かれ、戦友達が手足を飛ばされせいめいを失う現場を見ていると、ヒステリー女性そっくりの行為が起き始めた。かなきりごえをあげ、すすり泣く。砲弾ショックshell shockと名付けられたこの病態は、砲弾による脳震盪の神経障害だ、と言われるが、全く身体的外傷がない兵士にも同様の症状が出た。このような状態になった兵士は、伝統的な「兵士として前線に出るのは栄光である」という観点に立つ人間からしてみたら、排除するべき存在であり、「道徳的廃兵」といわれることすらあった。しかし、戦闘神経症はれっきとした精神科疾患であって、士気の高い兵士にも起こる、と主張して、人道的な治療を推奨した医師がいた。リヴァーズという医者の兵士サッスーンの治療が有名。(しかしこの時点ではあくまで兵士を前線に戻す、という前提での治療になっていた)

 

カーディナーという医師が連邦復員局の精神科外来で働き、WWI後の戦闘神経症患者をたくさん見た。カーディナーは自分の幼年時代の悪夢=貧困、空腹、放任、家庭内暴力から、心の傷を負った兵士達のそばに立つことができた、と悟り、戦争外傷の研究に着手する(実際は一旦出世の道を辿って、えらくなってから書く)。1941年にthe traumatic neuroses of Warという大著を出版。第二次世界対戦の到来とともに、医学会の関心も再燃した。いかなる人間も銃火の下に置かれたときには神経的破綻を起こしうる、と初めて認められたのだった。この時は、リヴァーズの治療理論と同様に「戦闘員同士の感情的アタッチメントが神経破綻を防ぐ」という文脈のもとで、前線で他兵士と近いところで治療されることとなった。催眠術や薬剤を使った変性意識の元で外傷記憶の再体験を行い、前線に復帰させる、という治療が行われた。言わずもがな、家庭に復帰したのちは、心的外傷が長期的に問題を起こしていた。

 

WWIIの後は当然研究は下火になる。次に注目され始めるのは1970年代のベトナム戦争だ。ベトナム戦争中には「ベトナム戦争に反対するベトナム帰還兵 Vietnam Veterans against the War」という組織ができ、反戦運動の道徳的信頼性を増加させた。ベトナム帰還兵達は、100以上の「おしゃべりグループ」を組織した。水入らずの会合において戦争の外傷的体験を再話、再体験した。このグループを元に、心理学的治療プログラムを用いたアウトリーチセンターができが。戦争帰還兵がスタッフとなり、自助グループ、peer counselingモデルにて治療を開始した。ここにおけるシステマティックな調査によって、外傷後ストレス障害PTSDの概念が形成されていくこととなる。1980年出版のDSM-IIIにおいて、PTSDの病名がみとめられることとなる。

 

 

このような、戦争とPTSDが連関して発展していく中で主人公は男性であったが、裏では女性の性的被暴力の問題が励起し始める。(女性の性戦争、と述べられる)

フロイト行こう女性の性生活は注目をあびず、真実を語れることはなかった。性生活、家庭生活における体験を口にすれば、公衆の前で屈辱を味わい、嘲られ、信用を失う元となった。

しかし、1970年代以降、consciousness-raising運動と言われるグループが活動を開始する。これはベトナム戦争におけるおしゃべりグループと共通点があり、小グループで今まで口を噤んでいたものをはなす、そんな会であった。公衆の自覚レベルが上がった中で、公開スピークアウトとしてレイプ問題について1971年に述べられている。その結果、NIHにレイプリサーチセンターが設立される。ヒステリーの英雄時代以来の個人的面接が学術の元に行われ始めた。すると、フロイトがファンタジーだと言って退けていた女性の体験が現実であると確認された。1900人以上の無作為抽出された女性にインタビューした結果、4人に1人がレイプ体験者、3人に1人の女性が小児期の性的虐待を受けていたのだ。

1972年、精神科のナース バージェスがレイプの心理学的結果について研究を開始した。レイプ後の余波期において、 睡眠障害、吐き気、驚愕反応、悪夢を訴え、解離症候群、無感覚症候群(要するにヒステリーである)をうったえることを「レイプ・トラウマ症候群」として記述した。戦争神経症と似た症状である事もしてきされている。

当初はレイプはストリートレイプが問題としてあげられたが、知人によるレイプ、結婚生活におけるレイプという、家庭内での暴力についても注目が変遷していった。家庭内暴力、小児性的虐待も同様にふぇみにずむうんどうから派生し、被殴打女性症候群battered woman syndrome、近親姦後生存者の心理なども研究対象となった。

 

女性のヒステリーと、男性の戦争神経症が同じものであることは、上記から明らかであり、そして、戦争と政治という公的世界:男性の世界で見られた現象が、家庭生活という私的生活:女性の世界にも見られる、呼応する疾患が存在した事が、この100年間で明らかになりつつあったのだ。

 

ここから複雑性PTSDへの繋がりになっていくのだ、それはまた別の記事の話。